この記事のポイント
- エージェンティックコマース市場規模の予測は、eMarketerの1,440億ドルからMcKinseyの5兆ドルまで約35倍の開きがあり、この差は予測精度ではなく「何をエージェンティックと定義するか」の違いから生まれている
- 米国B2C市場に限定すると、主要4機関の予測は「2030年にEC売上の10〜25%」という帯域に収束しており、方向性は一致している
- GartnerのB2B予測(2028年に15兆ドル)が示すように、消費者向けの数字だけを見ていると市場の全体像を大きく見誤る
エージェンティックコマース市場規模予測が「35倍」も開く理由
「エージェンティックコマースの市場規模は2030年にいくらになるのか」。この問いに対する答えは、どの調査機関のレポートを開くかで劇的に変わります。eMarketerは2029年に1,440億ドルと控えめな数字を出し、McKinseyは2030年に世界全体で3兆〜5兆ドルと桁違いのスケールを描く。同じ「エージェンティックコマース」という言葉を使いながら、予測額には実に35倍もの開きがあります。
この記事では、McKinsey、Bain & Company、Morgan Stanley、Gartner、eMarketer、Edgar Dunnという6つの主要調査機関の予測を横並びで比較し、なぜこれほどの差が生まれるのかを解き明かします。結論を先に言えば、差の本質は予測の精度ではなく、「何をエージェンティックと呼ぶか」という定義の違いにあります。
| 調査機関 | 対象地域 | 予測年 | 予測額 | 定義の範囲 |
|---|---|---|---|---|
| eMarketer | 米国 | 2029 | 1,440億ドル | AIプラットフォーム経由のEC売上のみ |
| Morgan Stanley | 米国 | 2030 | 1,900億〜3,850億ドル | エージェントが自律的に実行した購買 |
| Bain & Company | 米国 | 2030 | 3,000億〜5,000億ドル | エージェントが開始・影響・完了した購買 |
| McKinsey | 米国 | 2030 | 最大1兆ドル | エージェントがオーケストレーションした小売売上 |
| McKinsey | 世界 | 2030 | 3兆〜5兆ドル | エージェント関連の新規事業機会全体 |
| Edgar Dunn | 世界 | 2030 | 1.7兆ドル(狭義)/ 2.9兆ドル(広義) | 小売取引フロー全体 |
| Gartner | 世界 | 2028 | 15兆ドル(B2B) | AIエージェントが仲介するB2B購買全体 |
定義が数字をつくる――「エージェンティック」の境界線はどこにあるか
では、なぜこれほどの差が生まれるのか。各機関が「エージェンティックコマース」に含める範囲を丁寧に見ていくと、その構造が浮かび上がります。
最も狭い定義を採用しているのがeMarketerです。同社が計測対象とするのは、ChatGPT、Google AI、PerplexityといったAIプラットフォーム上で直接発生したEC売上に限られます。ユーザーがChatGPTの会話内で「これを買う」とボタンを押し、チェックアウトまで完了した取引だけをカウントする。当然、数字は小さくなります。2026年時点で200億ドル超、2029年に1,440億ドル(米国EC売上の約8.8%)という予測は、この厳格な線引きの結果です。
一方、McKinseyの「The Agentic Commerce Opportunity」(2025年10月)が描く3兆〜5兆ドルという数字は、まったく異なる地平を見ています。ここには消費者向けの購買だけでなく、ブランド、マーケットプレイス、物流、決済プラットフォームがAIエージェントによって生み出す新規事業機会の総体が含まれます。つまり「AIエージェントがオーケストレーションに関与した経済活動の全体」であり、eMarketerの定義とは射程が根本的に異なります。
この違いを理解するために、ひとつの購買行動を想像してみてください。消費者がChatGPTに「来週のキャンプ用品を予算5万円で揃えて」と依頼し、AIエージェントが複数のECサイトを横断して商品を比較し、最終的にあるショップで購入が完了したとします。eMarketerの定義では、AIプラットフォーム内でチェックアウトまで完結した場合のみカウントされます。Morgan Stanleyは、エージェントが自律的に比較・選択・購入を実行した部分をカウントする。Bainはさらに広く、エージェントが「影響を与えた」購買も含める。McKinseyに至っては、この取引に関わった物流の最適化や決済処理の革新まで「機会」として捉えます。
同じ買い物が、定義次第で「カウントされない」「1,440億ドルの一部」「5,000億ドルの一部」「5兆ドルの一部」のいずれにもなり得る。予測の精度が違うのではなく、測っているものが違うのです。
米国B2C市場に限れば、予測は収束している
定義の違いを踏まえた上で、比較可能な範囲に絞ると、実は予測の方向性は驚くほど揃っています。
Morgan Stanleyの2025年12月レポートは、米国ECにおけるエージェンティックコマースのシェアを2030年に10〜20%と推計しています。ベースケースで1,900億ドル、ブルケースで3,850億ドル。Bain & Companyは15〜25%で3,000億〜5,000億ドル。Morgan Stanleyがやや保守的なのは、「エージェントが自律的に実行した購買」という厳しめの基準を適用しているためです。Bainは「エージェントが開始、影響、または完了した購買」まで含めるため、範囲が広がります。
注目すべきは、両社とも中央値をとると「米国EC売上の15〜17%前後」に落ち着く点です。これはeMarketerの2029年予測(8.8%)が1年早い時点の数字であることを考慮すれば、成長曲線として整合的です。Publicis Sapientの専門家がFortune誌で述べた「3〜5年でEC売上の10%に到達する」という見立ても、この帯域の下限と一致しています。
つまり、米国B2C市場については「2030年前後にEC売上の10〜25%がエージェントに関与される」という見方がコンセンサスになりつつあります。絶対額では2,000億〜5,000億ドルのレンジ。不確実性は残りますが、「起きるかどうか」ではなく「どこまで速く進むか」が論点になっています。
B2Bの巨象――Gartnerの「15兆ドル」が意味するもの
消費者向けの予測に目を奪われがちですが、市場の全体像を見るにはB2B(企業間取引)を無視できません。Gartnerは2025年11月のプレスリリースで、2028年までにB2B購買の90%がAIエージェントを介するようになり、15兆ドル超のB2B支出がAIエージェント経由で流れると予測しました。
この数字はB2Cの予測とは桁が違います。なぜか。B2B購買は本質的に「定型的かつ反復的」な取引が多いからです。部品の定期発注、原材料の調達、SaaSライセンスの更新。これらは人間が介在する必要性が低く、AIエージェントの自動化と最も相性がよい領域です。価格交渉、サプライヤー評価、コンプライアンスチェックといった複雑なプロセスも、構造化されたデータがあればエージェントが処理できます。
一方でGartnerは、興味深い留保もつけています。「2028年までにAIエージェントの数は営業担当者の10倍に達するが、AIエージェントが生産性を向上させたと報告する営業担当者は40%未満にとどまる」という予測です。つまり、B2Bにおけるエージェント浸透は取引フローの「量」としては急速に進む一方、その効果を実感するまでにはタイムラグがある。インフラの整備が先行し、実際のROIが追いつくまでに数年かかる構図です。
さらにGartnerは2030年までに金融取引の20%が「プログラマブル」になると予測しています。取引条件をコードとして埋め込み、機械同士が自動的に交渉・決済を行う世界です。この動きが本格化すれば、B2BにおけるAIエージェントの役割は「人間の代理人」から「自律的な経済主体」へと質的に変化します。
予測の「レンジ」をどう読むか――3つの分岐点
ここまで見てきた予測の幅は、将来の不確実性を反映していますが、その不確実性を分解すると3つの分岐点に集約されます。
第一の分岐点は「消費者の信頼」です。Bainの調査によれば、米国消費者の30〜45%がすでに商品リサーチにAIを使っている一方、完全に自律的な購買をAIに任せることに抵抗を感じる消費者が50%に達します。Morgan StanleyのAlphaWise調査では約23%が過去1カ月にAI経由で購入した経験がある。この「調べるけど買わせない」から「調べて買わせる」への転換がどこまで進むかが、予測の上限と下限を分ける最大の変数です。
第二の分岐点は「インフラの成熟度」です。Google UCP、OpenAI ACP、Anthropic MCPといったプロトコルの乱立が続く現状では、エージェントがシームレスに複数のECサイトを横断して取引を完了するのは技術的に容易ではありません。プロトコルの統一または相互運用性の確立が遅れれば、Morgan Stanleyのベースケース(1,900億ドル)に近い着地になる。逆に、2027〜2028年頃にインフラが十分に整備されれば、Bainの上限(5,000億ドル)に近づく可能性が出てきます。
第三の分岐点は「規制環境」です。AIエージェントが自律的に購買を行う場合、法的責任の所在、消費者保護、データプライバシーに関する新しい枠組みが必要になります。規制が過度に厳しければ普及は遅れ、放置されれば信頼の欠如が普及を妨げる。適切なバランスが取れた法整備の速度が、市場成長の第三の変数として機能します。
EC事業者が「数字の読み方」を間違えないために
これらの予測を前にして、EC事業者が陥りやすい誤りがあります。それは「McKinseyが5兆ドルと言っているから巨大市場だ」あるいは「eMarketerは1,440億ドルしか見ていないから小さい」という、数字だけを切り取った判断です。
重要なのは、どの予測もAIエージェントがECの購買プロセスに深く関与する未来を描いている点で一致していることです。差があるのは「関与の深さ」の定義と「周辺市場をどこまで含めるか」だけ。McKinseyの3〜5兆ドルにはB2B、物流、決済インフラの革新が含まれ、eMarketerの1,440億ドルはAIプラットフォーム上の直接売上だけを測っている。自社のビジネスにとってどの定義が最も関連性が高いかを見極めることが、予測を実際の戦略に転換する第一歩です。
具体的には、自社ECサイトでの販売が中心の事業者にとって最も直接的な指標はMorgan StanleyやBainの予測です。エージェントが「自社サイトの売上にどれだけ影響するか」を測る基準として使えます。一方、決済やフルフィルメントのインフラを提供する事業者にとっては、McKinseyやEdgar Dunnの広義の予測が参考になります。
いずれにせよ、Bainが指摘する通り、「2030年までにAIはほぼすべてのオンラインショッピングに何らかの形で関与し、最大で4分の1の取引を完了させる」という見通しは、もはや楽観的な未来予測ではなく、事業計画に織り込むべき前提条件になりつつあります。AIエージェントに選ばれる仕組みづくりを今から始めることが、この市場の成長を自社の成長に変える条件です。
まとめ
エージェンティックコマースの市場規模予測は、測る範囲によって1,440億ドルから5兆ドルまで大きく変わります。しかし、どの調査機関もAIエージェントが購買プロセスの中心に入り込む方向性については一致しています。予測の「正しい数字」を探すよりも、自社にとっての「エージェンティック」がどこから始まるかを定義し、そこから逆算して準備を進めることが、2030年に向けた実効性のある戦略になるはずです。




