この記事のポイント
- Visa・Mastercardはプラットフォーム戦争の「勝者に賭けなくてよい」構造的優位を持ち、どのAIプラットフォームが覇権を取っても決済レイヤーで恩恵を受ける
- Visaはオープンプロトコル全方位外交とMCPサーバー公開で「インフラ提供者」を目指し、Mastercardは先行実装とデータ活用型B2Bサービスで差別化を図る
- 両社の収益モデルはトランザクション手数料から付加価値サービス(VAS)へシフトしつつあり、エージェント時代の「決済ハイパースケーラー」への進化が始まっている
カードネットワークはなぜエージェンティックコマースの「隠れた勝者」なのか
GoogleのUCPとOpenAIのACPが激しいプロトコル戦争を繰り広げる中、エージェンティックコマースの本当の受益者は別のところにいます。Visaの最高製品・戦略責任者Jack Forestell氏は、エージェンティックコマースを「決済テクノロジーに20年以上携わってきた中で最大の機会」と評しています。
この発言の背景には、シンプルな構造的事実があります。AIエージェントがどのプラットフォーム上で商品を発見しようと、どのプロトコルで注文を処理しようと、最終的な決済はVisaかMastercardのネットワークを通過します。14,500の金融機関と1億7,500万の加盟店拠点を接続するVisa、年間1,750億件のトランザクションを処理するMastercard。この規模のインフラを持つ2社は、プラットフォーム戦争の「勝者に賭ける」必要がありません。
Digital Commerce 360の報道は、この構図を端的に描いています。両社はライバルでありながら、「AIエージェントの本人確認をどう行うか」という同じ問いに向き合っています。ただし、そのアプローチは大きく異なります。
Visa Intelligent Commerce — 「全方位外交」で決済インフラを敷く
Visaが採用したのは、特定のプロトコルに肩入れしない「全方位外交」です。GoogleのUCPを支持しながらOpenAIのACPとも連携し、Stripe、Akamai、AWSとの提携で技術スタック全体をカバーしています。
この戦略を具現化するのがVisa Intelligent Commerce(VIC)です。100社以上のパートナーがグローバルに参加し、30社以上がサンドボックスで開発中、20を超えるエージェントプラットフォームが直接統合を進めています。2025年12月には数百件のエージェント主導取引が完了し、人間がチェックアウトボタンを押さずに実購入が成立した初の大規模実証となりました。
VICの設計思想は「既存インフラの上にエージェント対応レイヤーを載せる」という一点に集約されます。Trusted Agent Protocol(TAP)はRFC 9421に基づくHTTP署名でエージェントの身元を証明し、加盟店は既存のWebサーバーにミドルウェアを追加するだけで対応できます。新たな決済ネットワークを構築するのではなく、Visaがすでに敷き詰めた「レール」の上にAIエージェントを走らせる発想です。
2026年に入り、Visaはさらに開発者向けツールを拡充しています。MCPサーバーの公開により、AIエージェントがVisa Intelligent CommerceのAPIに直接接続できるようになりました。開発サイクルを数週間から数時間に短縮する効果があると謳われています。さらにAcceptance Agent Toolkitは、コードを書かずにプロンプトベースで請求書作成やペイメントリンク生成を実行できるツールで、非技術者でもエージェンティック決済を運用できる環境を目指しています。
AWSとの協業ではAmazon Bedrock AgentCoreとVICの統合が進み、アジア太平洋では2026年初頭からパイロットプログラムが始動、欧州ではAgentic Readyプログラムが正式ローンチされています。Visaが描くのは、あらゆるAIプラットフォーム・あらゆる地域・あらゆる開発者が「Visaのレール」を使える世界です。
Mastercard Agent Pay — 先行実装で「実績」を積み上げる
Visaが外交とエコシステムの「面」で攻めるのに対し、Mastercardは異なる戦い方を選びました。実取引の実績を世界各地で積み上げ、「先に動いた者」のポジションを確立する戦略です。
2025年第3四半期、Mastercard CEOのMichael Miebach氏はアナリスト向け決算説明会で、同社ネットワーク上で「業界初のエージェンティック取引が完了した」と発表しました。この一言は象徴的です。Visaがパートナー数やサンドボックス規模を語る傍ら、Mastercardは「すでに実取引が動いている」という事実で差別化を図ったのです。
その後の展開は加速度的でした。オーストラリアではCommonwealth Bank of Australiaの発行デビットカードでEvent Cinemasの映画チケットを購入し、Westpac発行のクレジットカードでThredboの宿泊を予約する実取引が完了。韓国ではAIエージェントが仁川国際空港からソウル光化門のホテルまでの配車を自動で検索・予約・決済しました。香港ではHSBCとDBS、マレーシアではCIMBとRHBとのパイロットが稼働中です。
これらの取引すべてに共通するのが、Mastercard Agentic Tokenの存在です。通常のネットワークトークンとは異なり、Agentic TokenはAIエージェントと個別ユーザーを一意に紐付けます。消費者はPayment Passkeys(パスキー認証)で本人確認を行い、エージェントに対して特定の範囲内での購買権限を委任します。トークンがエージェントの行動範囲を暗号的に制約する仕組みであり、Verifiable Intentの思想と直結しています。
PayPalとの提携も戦略的に重要です。PayPalウォレットにAgent Payを統合することで、PayPalの2,000万加盟店がMastercardのエージェンティック決済インフラに接続される道筋が開けました。
「認証標準」の先にある収益モデルの変化
Visa・Mastercardの認証標準をめぐる競争は別の記事で詳しく扱っています。ここでは、技術標準の先にある収益モデルの構造変化に焦点を当てます。
従来のカードネットワークの収益は、トランザクションごとの処理手数料が柱でした。しかし、両社の2026年第1四半期決算はすでに異なる方向性を示しています。Visaは付加価値サービス(VAS)が28%成長し、非GAAP営業費用が16%増加しました。Ryan McInerney CEOは「エージェンティックコマースにおいて、あらゆるエージェントのインタラクションが信頼され安全であるためのインフラ提供者かつ主要なイネーブラーになる」と明言しています。MastercardもVASが22%成長(為替中立ベース)を記録しています。
では、エージェント時代にVASとは具体的に何を指すのか。Visaは4つの成長ドライバーを掲げています。
第一に、摩擦の削減によるトランザクション成功率の向上。エージェントが最適化された形で決済を実行することで、カート放棄率が下がり、全体の決済ボリュームが増加します。第二に、取引密度の増大。AIエージェントが購買を細分化し、「月単位」ではなく「時間単位、分単位」での価格設定と決済が可能になり、x402やMPPのようなマシン決済レールの重要性も増しています。サブスクリプションの自動最適化やダイナミックプライシングへの即時対応が、これまでにない取引頻度を生み出します。
第三に、B2B決済のデジタル化。サプライヤーのオンボーディングから請求・消込・支払い実行まで、エージェントが一気通貫で処理する世界では、紙の請求書やマニュアル承認が消え、ネットワーク上のトランザクションが劇的に増えます。第四に、データインサイトの提供です。年間約3,000億件の取引を分析するVisaは、匿名化・集約化されたデータをAIエージェントに提供し、購買推薦の精度を上げる「データ・アズ・ア・サービス」の領域に踏み込み始めています。
Mastercard側は、決済データの活用を一歩先に具体化しています。2026年1月に発表されたAgent Suiteは、4,000人のグローバルアドバイザーの知見とMastercardの決済データ分析を組み合わせたBtoB向けAIエージェントサービスです。さらに3月にはVirtual C-Suiteを発表し、年間1,750億件の取引データに基づく経営判断支援を中小企業に提供し始めました。最初のモジュールであるVirtual CFOは、金融機関や会計プラットフォーム経由で配信されています。
この動きが意味するのは、カードネットワークのビジネスモデルが「パイプ」から「プラットフォーム」に変わりつつあるということです。決済を通すだけでなく、決済データから生まれるインテリジェンスを収益源にする。PYMNTSがVisaを「決済ハイパースケーラー」と呼ぶ理由はここにあります。
American Expressと次の参入者たち
Visa・Mastercardの二強に対し、他のカードネットワークはどう動いているのか。
American ExpressのCEO Stephen Squeri氏は2026年3月の株主書簡で、エージェンティックコマースを「Eコマース以来最大のショッピングの変化」と位置づけました。同社はAgentic Commerce Experiences(ACE)開発者キットの公開を予定しており、パートナーがAmexの決済機能をエージェンティック体験に統合できるようにします。EMVCoでのカードベース・エージェンティック決済仕様の策定にも参画し、Cloudflareとの認証標準の共同構築、GoogleのAP2への貢献も進めています。
Amexの戦略はVisa・Mastercardとは本質的に異なります。ネットワーク・イシュアー・アクワイアラーの三役を一社で兼ねるため、消費者・加盟店・発行会社のすべての視点を統合できるという独自の立場があります。プレミアムサービスとセキュリティを武器に、「量」ではなく「質」でエージェント時代のポジションを確保しようとしています。
GoogleのAP2には60社以上が参画しており、JCBとUnionPay Internationalもこの枠組みの中でエージェント決済への対応を進めています。ただし、Visa・Mastercardと比較すると、トークン化基盤やエージェント向け決済フローの構築は遅れています。対応が遅れれば、エージェント経由のトランザクションがVisa・Mastercardに集中し、取引ボリュームを失うリスクがあります。
| 項目 | Visa | Mastercard |
|---|---|---|
| 中核プラットフォーム | Visa Intelligent Commerce (VIC) | Agent Pay + Agent Suite |
| 認証アプローチ | TAP(HTTP署名による身元証明) | Agentic Token + Verifiable Intent |
| アライアンス戦略 | 全方位外交(UCP・ACP両対応) | Google共同開発 + OpenAI・Cloudflare連携 |
| 開発者ツール | MCP Server + Acceptance Agent Toolkit | Agent Suite + Start Path拡張 |
| B2B展開 | VAS(付加価値サービス)拡大 | Virtual C-Suite(中小企業向けAIエージェント) |
| 初のライブ取引 | 2025年12月(数百件) | 2025年Q3(業界初) |
| 地域展開 | 100社以上のグローバルパートナー | 米国→豪州→韓国→香港→東南アジア |
EC事業者にとっての実践的な意味
カードネットワークの戦略シフトは、EC事業者に何をもたらすのか。
最も重要なのは、決済プロバイダー経由の間接対応が現時点で最も効率的だという点です。StripeはShared Payment Token(SPT)でVisa・Mastercard両方のAgentic Network Tokenに対応しています。Adyen、Fiserv、Nuveiといった主要プロセッサーもTAPやAgent Payの早期採用パートナーです。自社の決済プロバイダーがどのネットワークにどこまで対応しているか、まず確認してください。
次に意識すべきは、エージェンティック決済の全体像の中で、カードネットワークのVASがもたらす間接的な恩恵です。不正検知の精度向上、紛争処理の効率化、トランザクション成功率の改善は、すべてカードネットワークのAI投資から生まれます。直接的な対応コストをかけなくても、ネットワーク側の進化が加盟店の収益性を押し上げる構造になっています。
一方で注意すべきリスクもあります。エージェントが購買を細分化し、取引密度が上がるということは、インターチェンジフィー(加盟店手数料)の構造にも変化が及ぶ可能性を意味します。1回の購買が複数のマイクロトランザクションに分割された場合、手数料体系がどう適用されるかは、まだ業界全体で合意が形成されていません。
まとめ
GoogleやOpenAIのプロトコル戦争が注目を集めていますが、エージェンティックコマースのカオスマップを俯瞰すれば、カードネットワークの立ち位置の特異さが際立ちます。どのプラットフォームが勝っても決済はVisaかMastercardを通る。この構造的優位を武器に、両社は「パイプ」から「インテリジェンス・プラットフォーム」への転換を加速させています。プロトコル戦争の勝者がまだ見えない中、すでに実取引を動かし始めたカードネットワークこそが、エージェント時代の「静かな覇権者」になる可能性を秘めています。




