この記事のポイント
- 東南アジアの決済業界が、QRコードの次の転換点としてエージェンティックコマースに注目し始めた
- 9カ国に拡大した越境決済網と高いデジタル決済浸透率が、AIエージェント決済の土台になりつつある
- EC事業者は越境展開時、国ごとの決済嗜好の違いと「信頼のギャップ」を前提に設計する必要がある
QRコードの次に来る「転換点」

The payments industry is already looking beyond QR codes to agentic commerce, which stakeholders say could be the next major breakthrough in the sector.
theedgemalaysia.com2026年6月8日、マレーシアの経済メディアThe Edge Malaysiaは、東南アジアの決済業界がQRコードの次の転換点としてエージェンティックコマースに注目していると報じました。決済ゲートウェイ、越境決済プラットフォーム、国際カードブランドといった当事者たちが、口をそろえて「次の大きな飛躍」と位置づけている点が記事の核心です。
ここで言うエージェンティックコマースとは、AIエージェントが消費者や企業に代わって、決済の開始から実行、照合までをオープンAPI経由でほぼ人手を介さずに行う取引形態を指します。商品を探して買うだけでなく、支払いそのものを自律的に処理する点が従来のオンライン決済と決定的に異なります。
なぜ今、東南アジアでこの話なのか。背景には、この地域のデジタル決済が成熟の節目を迎えているという事情があります。記事が引用するGoogleとTemasek、Bain & Companyによるe-Conomy SEA 2025レポートは、ASEAN10カ国の決済浸透率が2030年までに総取引額(GTV)の73%に達する見込みだと示しています。現金が王様だった時代が終わりつつあるのです。
QRコードが整えた「土台」を読み解く
エージェンティックコマースの話に入る前に、なぜ東南アジアがその受け皿になり得るのかを押さえる必要があります。答えはQRコードにあります。
東南アジアのQRコードは、もともと個人間送金のツールとして始まりました。それが今では、ミャンマーのMMQRやブルネイのtaurusQRを含む10カ国すべてで、統一された国家決済システムへと成熟しています。記事によれば、GTVに占める現金の割合は2025年の39%から2030年には27%まで急落する見通しです。
特筆すべきは、QRの普及が零細・中小企業(MSME)の金融アクセスを大きく広げた点です。決済ゲートウェイ大手Fiuuの共同創業者兼CEOであるEng Sheng Guan氏は、現金を持ち歩く必要がなくなり、路上での盗難も減っていると指摘します。デジタル取引の恩恵が、利便性だけでなく治安の側面にまで及んでいるという視点は見逃せません。
この「全員がeウォレットを持ち、QR決済の使い方を知っている」状態こそが重要です。決済行動がすでにデジタルに移行しているからこそ、その先にある「人間を取引から外す」という発想が現実味を帯びてきます。
越境決済網の拡大が次の伏線になる
エージェンティックコマースを地域規模で機能させるには、国境をまたいだ決済の相互運用性が欠かせません。この土台づくりが、すでに着実に進んでいます。
中心にあるのが地域決済連携(RPC:Regional Payment Connectivity)です。2022年に5つの中央銀行で発足したこの枠組みは、その後ベトナム、ブルネイ、ラオス、そして2025年4月のカンボジア参加によって、9つのASEAN中央銀行が署名する体制へと拡大しました。マレーシアの旅行者がバンコクやジャカルタの屋台で、クアラルンプールと同じ感覚で支払える世界が整いつつあります。
接続が進んだQRシステムには、カンボジアのKHQR、インドネシアのQRIS、マレーシアのDuitNow、フィリピンのQR Ph、シンガポールのPayNow、タイのPromptPay、ベトナムのVietQRなどが含まれます。2025年末時点で、ASEAN域内および域外パートナーとの間で29のQR・個人間決済リンクが稼働しています。
国際カードブランドはこの動きを脅威ではなく補完と捉えています。Visaマレーシアは、QRとカードが競合するのではなく「マルチレール」のエコシステムとして共存すると説明します。実際、82%の事業者がカード決済によって売上増や客単価向上といったプラスの効果を報告しているといいます。決済手段の優劣ではなく、相互運用性こそが越境取引を支える鍵だという認識です。
最大の壁は技術ではなく「信頼」
ここまでは前向きな話が続きました。しかし記事が最も紙幅を割いているのは、普及を阻む障壁、すなわち信頼の問題です。
消費者の関心は高まっていますが、あくまで慎重な姿勢を伴います。記事が引用するWorldpayの複数国調査では、AIエージェントを「絶対に使わない」と答えた買い物客はわずか4人に1人にとどまり、75%は今すぐ試したい、または条件次第で使うと回答しました。一方で、多くの消費者はAIに任せる取引を全体の2割程度までと見込んでいます。つまり現時点では、買い物行動を丸ごと置き換えるものではなく、あくまで「補助的なチャネル」と見なされているのです。
懸念の中心にあるのは、説明責任の所在です。人間が取引の連鎖から外れたとき、不正・チャージバック・取引後の紛争を誰が処理するのかという問いに、業界はまだ明確な答えを持っていません。
越境決済プラットフォームJusPayのNakul Kothari氏は、インドの先行事例を引きます。VisaとMastercardが生体認証を導入する際、取引額の上限や頻度制限といった厳格な制約を設けることで消費者の信頼を築いた歴史です。「より多くのガードレールを設けることが重要だ」という同氏の言葉は、自動化の最大化よりも制御可能性を優先する業界の姿勢を象徴しています。
人間による監督の必要性を強調する声もあります。越境決済のAirwallexでSEA拡大を統括するAndrew Chim氏は、リスク判断の自動化には慎重です。「どこでAIに自律的に行動させるかについて、私たちは非常に慎重だ。リスクの判断は定義が難しく、人間によるチェックなしにエージェントが大きな為替ポジションを一方的に動かせる段階にはない」と語ります。
FiuuのEng氏もまた、AIが決済プロセスを変えても、最終的にはカードブランドや決済ネットワークへの依存が残ると指摘します。エージェントAIは取引を後押しする大きな役割を担うものの、実際に決済を成立させるのは依然として既存の決済網だという現実的な見立てです。
地域の「均質さ」という幻想
越境網の拡大という見出しの裏で、現場の実態ははるかに複雑です。この点は、ASEANへの進出を検討するEC事業者にとって特に重要な論点になります。
JusPayのNakul氏は、各国がそれぞれ独自の規制と決済嗜好の「ニュアンス」を維持していると説明します。シンガポールはカード中心の市場、インドネシアはバーチャルアカウント中心、マレーシアはウォレット中心、タイではリアルタイム決済のPromptPayが台頭しています。「東南アジア」と一括りにできない現実が、ここにあります。
ライセンス取得も規制上のボトルネックです。Fiuuのタイでの決済ライセンス申請は、現地手続きと言語対応の複雑さを反映して2年半以上を要したといいます。さらに、データ主権法の台頭が負担を重くしています。インドネシアやタイのように、特定のデータを国内でホスティングするよう求める国では、専用のクラウドノードを開設せざるを得ません。
B2B取引にも固有の制約が残ります。AirwallexのChim氏は、即時決済レールが大規模なB2B取引では取引額上限の低さや「メーカー・チェッカー(起票者と承認者を分離する)」承認フローの欠如といった限界に直面すると指摘します。即時送金の不可逆性ゆえに、巨額の支払いで数字を一つ打ち間違えても「取り消しボタン」が存在しないのです。
EC事業者は何を準備すべきか
この記事が示す論点を、EC事業者の実務に落とし込むと、優先順位は明確になります。
第一に、越境展開の設計を「国ごと」に最適化することです。決済手段を一律に揃えるのではなく、シンガポールならカード、インドネシアならバーチャルアカウント、マレーシアならウォレットというように、現地の主流に合わせた決済オプションを用意する必要があります。MSMEの需要も一様ではありません。屋台の店主が求めるのは単純なQR受け入れですが、10市場に展開するオンラインブランドには、多通貨処理・不正防止・規制対応を兼ね備えた高度なインフラが要ります。
第二に、エージェンティックコマースを「信頼の設計」から始めることです。自社サイトでAIエージェント経由の購買を受け入れるなら、取引の説明可能性、取消・返品ポリシーの明確化、エージェント認証の仕組みを事前に整える必要があります。消費者がAIに委ねるのは当面「取引の2割程度」という前提に立てば、過度な自動化よりも、人間が確認できる余地を残した設計が現実的です。
加盟店手数料(MDR)の構造変化も見逃せません。e-Conomy SEAレポートによれば、加重平均MDRは年0.05ポイントずつ低下しています。単なる取引処理だけでは1〜3%の手数料を正当化できなくなりつつあり、付加価値サービスによる差別化が成否を分ける局面に入っています。
まとめ
東南アジアのエージェンティックコマースは、QRコードが築いた成熟したデジタル決済の土台の上に立っています。9カ国に広がった越境決済網と高い浸透率は、AIエージェント決済を地域規模で機能させる前提を整えつつあります。
一方で、当事者たちが繰り返し強調したのは、技術の限界ではなく信頼の壁でした。説明責任の所在、国ごとの規制の違い、人間による監督の必要性。これらをどう設計するかが、今後3年で現実になると見込まれるこの転換点の行方を左右します。ASEANを射程に入れるEC事業者にとって、いま問われているのは「いつ自動化するか」ではなく「どこまで人間の確認を残すか」という設計思想そのものです。





